「著作権」というものに対するそもそも論

ちょっと前に、mixiの「著作権」コミュで「高校文化祭の演劇に著作権料?」というトピックスが立ちました。
まぁ、アレですね。この話。すでに少し古い話となっているような気がしてしまう、っつーのはネットの怖いところですね。まだほんの少し前の話ですよ。

Copy & Copyright Diary
[著作権]権利制限の意味
http://d.hatena.ne.jp/copyright/20071019

この場合、実際には要するに著作者人格権であるところの同一性保持権をベースに、こういう主張をしてるんですね。要するに、原作の戯曲をそのまま上演することは、おそらく高校の文化祭レベルだと不可能なケースがほとんどでしょうから、基本的には改作をする事になります。で、実際現行法上だと、それは同一性保持権の侵害ですから、第三十八条の「営利を目的としない上演等」にあたったとしても、請求が可能である、ということになります。この解釈で行くと、まぁほとんど全ての戯曲は利用するのに許諾が必要である、という事になります。

で、著作権コミュで、「改変は許さないというスタンスの作者の権利は保護されるべき」という主張がありました。まぁ、何人かの方の主張を総合して考えると「改変をされるという事は大変に苦痛であり、それを許さない権利は『そもそも』著作者が保持できるはずである」という事だ、と私は解釈しました。

実は私はここ最近延々とこの件について考えています。以下で少し、mixiのコミュで話した事をもう一度再構成しつつ、つれづれと書いてみようかと思います。

本当にあなたの「常識」は正しいのだろうか?

「改変をされるという事は大変に苦痛であり、それを許さない権利は『そもそも』著作者が保持できるはずである」、というような主張、つまり「同一性保持権は天賦の権利である」という意見って結構多いんですが、そもそも現行の著作権法がそうなっているだけであって、もともと著作権ってそういうものなんでしょうか。「法で決められた事だから守らなければいけない」のと「権利であるから法で守るべき」を、混同して考えているケースが多いのではないでしょうか。

払われるべきは「著作者に対する敬意」であり、禁止されるべきは「著作者に対する中傷」であって、著作物の改変を一般的な著作者に対する中傷として扱うべきだ、とは考えるべきではないと思います。本当に守られなきゃいけないのは、「改変したものである事、改変者の明示と出展の明記」なのではないかなぁ、と思うのです。それさえきちんと明示されてれば、原典にあたれるわけですから。

「何故」変えてはいけないのでしょう。「変えてはいけない、と主張する人がいるから」ではなく、そこから先を考えるべきなんじゃないでしょうか。その権利は「何故」生まれたのか?本当は、最初に法律を作るときに、便宜上「改変の禁止」としていた部分が、金科玉条のように守られるようになっただけなんじゃないでしょうか。著作者の方に問いたいのです。

「改変されたときに、それが貴方の示したものではない、という事が明示されていても、本当に『傷つき』ますか?それは傷つくとしたら、どうしてなのでしょう。『法で決められた権利を侵害されたから傷つくのは当然だ!』と思ってはいませんか。

著作権者の方にも、利用者の方にも、もう一度「著作権ってなんだろう」という事を、まずは「法律を前提とせずに」考えてみて欲しいです。数多の童話が、もっと複雑な物語の「再話」から生まれた事や、演劇に置けるアドリブの意義(一言の言葉の改変が、全てを変えてしまうことももちろんありますし、大きなカットがほとんど何も歪めない事もあるでしょう)などもちょっと、もう一度根本から考えてみていってほしいなぁ、と。

本当に基本は「変えさせない」事ですか?