これからの著作物の権利のあり方についてつれづれと書いてみた

これからの著作物の権利のあり方についてつれづれと書いてみた

著作権法の理念は文化の発展のためにある。
文化を発展させるというのなら、あらゆる著作物は利用されなければいけない。
利用にはもちろんそれを読む、見る、聞くなど享受することがまず挙げられるが、ここではむしろ二次利用を行うことがもっともっと活発にならなければいけないと考えている。

二次利用は、それ自体が文化だと思う。

1、例えば、ある曲を聴いた人が、それに感動して、それと同じようなタイプの曲を作りたいと思う。
2、例えば、ある曲を聴いた人が、それに感動して、その曲に映像を載せたいと思う。

これらは至極真っ当な創作欲求だろう。人はまず模倣によって成長し、その上で自己を確立するものだからだ。人によって作られる文化も、まずは模倣によって成長し、その上で自己を確立するというのは間違っていないと私は信じる。

だが、現状は1は誰にも許可を得ずに行えるが、2は許可を得なければ行えない行為であるのだ。

二次利用を無償によって行えるようにしろとは言わない。
普通の人が普通に支払える額でいいと思う。
全てを利用できるようにしろとは言わない。
例えば、曲の長さの半分以下にしろとか、そういう制限があってもいい。
もしくは、そのものを使ってはいけないという制限でもいい。
たとえば、その曲を使いたければ自分で演奏すること。いや、自分じゃなくていい、そのものズバリのコピーは使ってはいけない。ということだ。

うん、これは面白いかもしれない。
商業的に見ると、例えば楽曲というのは「その歌手が歌っているその曲であるから」商業的価値が出る、というケースが多いだろう。例えば宇多田ヒカルが歌っている曲を私が歌っても、そんなものには何の価値も見出さない人が多いだろう。しかし、二次利用によって創作活動の助けにするためにはそのものずばりのコピーである必要は無いのだ。むしろ、その方が創作性が高まり、文化の発展に寄与することになるのではないだろうか。

画一的なコピーの氾濫はその文化の死につながる。今は実は、二次的な利用が出来ないが故に、そのベースとなったものに対するさまざまな解釈を提示できないのではないか?もともと本家取りというのは日本の文化ではなかったのか。そして、単なる似たような「著作物」が提示されていくことになる。

そうではなく、その著作物そのものに対して二次利用を行うことができるようにすることで、むしろより創作的な活動が可能になるのではないだろうか。

翻案権なんてもってのほかだ。換骨奪胎は、(常にとは言わないが)新しい創造の糧になってきたのだ。翻案を行うことはむしろ奨励されるべきなのではないか?

という事を考えてみた。
なんだ。
結局、レッシグ教授の言うことから、一歩も出てない感じになった。

ただね、僕は、同人がやりたいんですよ。できれば、ちゃんとグレーではなく。